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焼肉
三甲

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美味しい焼肉を
お腹いっぱいまで
たっぷり満喫
カップルさんや
少人数での会食に
最適です。

創業昭和60年。
元WBA世界ミドル級チャンピオン竹原慎二の母のお店です。
たくさんのお客様に美味しく楽しんでいただけるお店をモットーに営業中です。店内も明るく元気のあるお店です。

お昼の定食が大人気!です。
ボリューム満点の昼の定食はサラリーマンから買い物帰りのお母さんまで大人気です。
是非一度ご賞味くださいませ。

■営業時間:
水・木・金≫   ランチ 11:15~14:00
17:00~22:00(LO 21:30)
月・土・日≫ 17:00~22:00(LO 21:30)
※ランチ営業は水木金曜日のみとなります。
■定休日:火曜日 (祝日、祝日前日は営業します)

ランチタイムに
三甲ラーメン定食

■ ランチ営業は水・木・金曜日限定です。

大人気のランチメニュー

プラス160円で、肉めし・チャーシューめし・キーマカレー・ソースカツめしのいずれかをセットにできます。
水・木・金曜日が祝日の場合も営業いたします。

竹原慎二物語 1

「竹原慎二 世界王者までの道のり」
      文・平林浩一

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子供の頃から勉強嫌い、しかし天性の運動センスでスポーツ万能少年として有名だった。 そんな彼も地元中学校へ入学。無論勉強するどころかタバコ・ケンカ・バイクに明け暮れ不良少年というレッテルを貼られてしまう、案の定進学を希望した高校4校から入学拒否された。 中学を卒業してからは、ペンキ屋・印刷屋・土木作業員等の仕事につくもののどれも長続きはせず生活はますます荒んでいった、父 三郎はそんな息子を黙って見守りつづけていた。

将来の夢もなく、漠然とした苛立ちを感じながら過ごしてきた慎二は16歳のある日、ケンカで相手に重症を負わせ入院させるという事態を引き起こしてしまう、今まで黙って見守り続けた父 三郎はこの時慎二にこう云った、「このまま広島におればお前は広島の粗大ゴミになる、2年ぐらい東京に行ってボクシングをしてこい」、この時、父 三郎は、ボクシングを通じ精神をきたえなおしてくれれば・・・という程度の軽い気持ちであり、まさか息子 慎二が世界王者になるとは夢にも思っていなかったのである。 父の思いとは裏腹に、一旦上京すると決心した慎二は、「絶対 世界チャンピオンになってやる」と固い決意を胸に秘め、スポーツバック1つと3万8千円のわずかな現金だけを持ち、1988年9月9日、広島を後にした。

広島では毎日、友達とつるんで遊んでいた生活から一変し内装業のインテリア中村に就職させてもらい、家賃3万8千円・6畳一間・共同トイレ・風呂無しのおんぼろアパートが彼の住まいとなった。 そして沖ボクシングジム入門。 昼は仕事、夜はボクシングの練習に明け暮れるハードな毎日が続く。 だが、必ず世界チャンピオンになるという高い目標を掲げた慎二は、この生活から消して逃げなかった。

17歳でプロテストに合格し、1985年5月15日待ちに待ったプロデビュー戦、相手は慎二より15歳も年上、その相手を4ラウンド最終20秒前にあらん限りの最後の渾身の力を振り絞った左フックで見事KO勝ちに導き、プロデビュー戦を飾る。 この時慎二は「目標を持ち努力して頑張れば、絶対世界チャンピオンになれる」と確信したのだった。 また、この時何より嬉しかったのが、会社の仲間が応援に駆けつけてくれ、自分の事のように慎二の勝利を喜んでくれた事である。 以来慎二は、自分の為だけに続けてきたボクシングを、応援してくれる皆のためにも今以上に頑張ろうと思い始めたのだった。

より一層、練習に励む慎二、努力の甲斐もあり1991年10月28日プロデビュー以来11連勝、なんと19歳という若さにして見事、日本チャンピオンに輝いたのである。 日本チャンピオンタイトルを4度防衛し、1993年5月24日今度は東洋太平洋ミドル級チャンピオンを獲得する。 このタイトルも6度の防衛に成功。

しかし、国外ではメジャーなクラスで強敵が多いミドル級とあって、東洋太平洋王者の竹原にはなかなか世界タイトル戦の話がこない。 焦りといらだちが見え始めた慎二だった。 このまま世界タイトルに兆戦出来ずに東洋王者で終わってしまうのだろうかと思うほどだったという。 しかしようやく8年の歳月を経て1995年12月 19日WBA世界ミドル級タイトルマッチが決定した。 喜びとは裏腹、慎二は最初で最後の兆戦だと自分に言い聞かせた。

対戦相手は王者ホルへ・カストロ(アルゼンチン)104戦98勝(68KO)4敗という怪物。 いくら慎二が24戦負け知らずの無敗といっても、所詮アジア地区の王者、マスコミも世論も「竹原絶対勝ち目なし」ボクシング関係者の中でも圧倒的不利説がとびかっていた、しかもテレビ中継でさえゴールデンタイムからはずされ深夜午前1時15分からの録画放送という始末、人生最大の屈辱を味あわされた。 慎二は「何が何でも勝ってやる、今に見ていろ!!」と心の中で闘志を燃やしていたのであった、そして負けたら引退、そう決意していた。実際、慎二の勝利を信じていたのは沖ジム関係者、友人、広島にいる両親、兄だけであった。

PM8:00 東京後楽園ホールに運命のゴングが鳴り響いた。 会場を埋め尽くした2500人の観衆が日本人初のミドル級タイトルマッチを固唾をのんで見守る。 1ラウンド、2ラウンド誰もが予想しえない試合展開になっていた。 慎二が互角以上に、あのホルへ・カストロと打ち合っていたからだ。 3ラウンド、今まで一度もダウンをした事がないというホルへ・カストロから慎二はボディーでダウンを奪ったのである。試合前、絶対勝てないだろうと重苦しい雰囲気に覆われていた会場が熱い声援に包まれ、慎二はこの瞬間勝利が見えた。 しかし、怪物と云われるだけありホルへ・カストロもこのままでは引き下がらなかった。 4ラウンドから慎二をロープに釘づけにし、実力を発揮し始めた、慎二優勢から一気にホルへ・カストロへと見方が流れていった。声には出さないが「慎二は、やはり勝てない」という思いが観衆の心を占めていくが手に取るよう解かった、このままやられるのか・・・と不安な気持ちで見守る観衆。 だが、9ラウンド、慎二は眠りから覚めた獣の様に、またホルへ・カストロをロープに追い込み、優勢に戦いだしたのである。 昔、迷惑をかけた両親、上京して親身に面倒をみてくれた会社の人たち、そして世界王者を目指し、一緒に頑張ってきた沖ボクシングジムの仲間達の為にも負けられなかった、いや負けることは許されなかったのだ。

ついに迎えた12ラウンド、王者ホルへ・カストロはこのまま終わるはずもなかった。 「慎二を倒してやる」と、気迫を漲らせ最後の猛攻を奮ってくる。 勝ちたい、意地でも倒れるものか・・・という思いで必死に戦う慎二、しかし残る気力もあとわずか。 半分意識が薄れかけた瞬間、終了のゴングが後楽園ホールに鳴り響いた。 観衆は大興奮、しかし慎二の足はガクガク震え、立っているのが精一杯の状態であった。 結果は判定待ちとなる、アナウンスが告げられるまでの間、こんなに長い時を感じた事は今まであっただろうか・・・ 余韻冷めやらぬ観衆、今だ息の荒い慎二とホルへ・カストロ、そこえ勝者を告げるアナウンスが流れた、「竹原 慎二!!」、アナウンスとともに会場はわれんばかりの拍手が沸き起こり、中には喜びのあまり泣き出す観客、周りの人達と抱き合い勝利を祝う者も見うけられた。

リング中央には、天を仰ぎ両手を高々と上げる慎二。 しばらく目を閉じていた彼は、今この瞬間をしっかりと目に焼き付ける為、ゆっくりと瞼を開いた。

今日までの苦労と努力が報われたのである。 かつては広島の粗大ゴミとまで云われた慎二、努力と忍耐の8年間であった。 慎二は、応援してくれるみんなの為に「絶対、世界王者になる」と言いつずけてきた、そして1995年12月19日PM8:50 前人未到、日本人初のWBA世界ミドル級王者が誕生した。

つづく

(文中敬称略)

竹原慎二 プロフィール
1972年1月25日生まれ
広島市 府中町 出身
身長 186cm
体重 78kg
血液型 A
好きな食べ物 焼肉 パスタ

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